"宗教者は政治権力に密着しているだけ"

イスラム国躍進の構造と力

『公研』2014年10月号 「対話」 池内恵 VS 山形浩生


via  mozu




山形:イスラーム国とアル・カーイダは、決定的に対立しているとは言えないようですが、両者に考え方の違いはあるのでしょうか。

池内:ほとんど同じです。イスラーム国の残虐性を強調するために、アル・カーイダよりも酷いとか、アル・カーイダを破門された連中が組織されているといった言い方が英語圏であれ日本であれ安易に使われています。確かにイスラーム国は、手段がより残酷な面はあると思います。ただし、それが両者のイデオロギーの違いによるものかと言うとそれは違って、基本的にイデオロギーは同じなんです。イスラーム国は本来イラク国内を拠点に活動できたわけですが、その際に宗派主義をかなり強調しました。サダム・フセイン政権崩壊後に中央政府を牛耳っているシーア派は異端であり、間違ったことを信じていると。しかし、実際には対立は政治的なものです



山形:イスラーム法学者の親玉になるには、例えば進学校に通ってコツコツ勉強して大学院で博士号を取る必要があるといったプロセスがあるわけではないのですね。チベット仏教の世界の高僧とは違うのですか。

池内:違います。イスラームの法学書には要件としてはまず血筋が必要だと書いてあります。スンナ派にしてもシーア派にしても、いずれにせよある時期まではムハンマドの血縁にあたる人物が指導者でした。同時にある程度イスラーム法の判断能力がないといけないとあります。ただし、それは最高の判断能力でなくてもいい。シーア派は、イスラーム法学者の階梯制度をつくっていますから、その上で最高の判断能力のある人を決める仕組みがあります。まず宗教的なヒエラルキーがあって、その頂点が政治の上に立つという理論をつくっていったのがシーア派です。
 それに対してスンナ派にはヒエラルキーがありません。今回の問題ではサウジアラビアやエジプトのアズハル(スンニ派最古の教育機関)の高位のウラマーに「イスラーム国はイスラームに反している」などと言わせていましたが、彼らは特に権限を持っているわけではありません。彼らの力の源泉は、彼らが国家権力者に近くに位置していることが明白である点にあります。つまり、彼らの主張は権力者が取り入れるであろうから、彼らの言うことは割に現実化するといった意味でしかないんです。スンナ派にはアズハルの人たちの見解にみんなが従わなければならないという根拠は全くありません。見解の相違は無限にあって、免状をいっぱい持っているアズハルの偉いウラマーの人は、「俺のほうが正しい」とは言えますが、その見解に従わないからといって地獄に落ちるとも言えないし、破門にする仕組みもありません。
 仮にある国の地下組織が「現状の国家はだめだ。テロをやる」と言った時に、例えばアズハルやサウジの有力なイマームや高位の聖職者が「それは反イスラーム的だ」と糾弾したとすると、少なくともそれらの国においては明らかに有効です。彼らの発言力は権力者が裏打ちしていますから。
 ところが、イスラーム国が曲がりなりにも領域支配をしていて、そこで彼が「自分はカリフだ。この国は間違っている」と言っているとなると、これは正にどっちもどっちという世界になってしまう。もしイスラーム国が広がってエジプトを支配したら、アズハルのウラマーは「イスラーム国は正しい」と言うはずです。スンニ派の人々は宗教指導者の権威をその程度だと知っているんです。宗教指導者は実際の政治権力を持っている人を承認することが大前提で、そのことを人々も知っています。



山形:今の国境は、第一次世界大戦中に西側諸国が決めたサイクス・ピコ条約体制による中東の分断だと。

池内:そうです。そもそも存在してはならない国がそれぞれの国で持っている宗教機構は全く意味がないことになってしまう。そういう意味では、宗教者にとってもイスラーム国の存在は脅威です。
 しかも、世界全体が一つのイスラーム国をめざすという彼らの理屈はイスラーム的に見ると正しいわけです。彼らが考えるところの誤った統治、アメリカのような異教徒の同盟者をそれぞれの国が持っている今の中東はおかしい、なくしたほうがいいという議論にはイスラーム的にはなかなか反論できない。




もともとイスラーム法は、国家の最低限の機能だけを規定し、福祉などは喜捨でやればいいというものです。喜捨の配分機能は権威的に存在する必要がありますが、それだっていろいろな人が担えばいいよねという考え方です。夜警国家的ですね。内戦状態にあったり、実質的に国家が崩壊しているような地域では、最低限の秩序を守らせる実力と基準があるイスラームはずっと魅力的なのだと思います。  この話をもっと広げて今の世界地図を眺めると周辺的な領域をイスラームが埋めるという動きが各地に見られます。辺境地域だけではなく、その兆しは先進国の都市郊外に見られます。パリ郊外が典型ですが、大都市郊外ではなぜ若者がラディカル化するのか。イスラーム教徒であれ、そうでない人たちであれ、そうした地域ではほっておいたらギャング化する傾向が見られます。秩序が存在していることになっているが、実際にはなくなりかけているわけです。違法だとわかっていても悪いことをやって、お互いに抗争して死ぬ者が出て来たりする。それから麻薬がはびこる。いわゆる麻薬と暴力です。
 先進国の文脈で言うと、イスラームはそうなってはいけないと諭す。放っておかないわけです。麻薬をやったり抗争して死ぬことに何の意味があるんだと。それに対してイスーラムには規範があり、正しいもののために戦うジハードをやる。素晴らしいじゃないかと。
 それから刑務所でイスラーム教に目覚める人、改宗する人が結構います。改宗し服役した後には、単に宗教儀礼をきちんと行うだけではなくジハードをやるともっといいと教え込む。ほっておいたら麻薬や暴力に走るような子が、そうした犯罪から足を洗ってジハードをやる。そういう流れなんですね。このパターンはアメリカでも見られます。特に黒人社会は失業率も高く、犯罪に走る率が異常に高い。普通ならばどんどん悪くなってしまうところをイスラームに入ることで回生をすると。ミクロなレベルではそういう流れがあったわけですが、それが国際情勢の中にも出てきてしまっています。



 近代の初期において、西洋からの圧力に対しては何でもかんでもイスラームは近代的な規範を先に実現していた。だから、近代的な規範とはぶつからないという議論をしたわけです。特にジハードに関しては、「全部防衛だ」と理屈を付けました。イスラーム側がやったジハードは100%防衛だと。歴史を見てみろと。我々は被害者で異教徒が攻めてきたから戦ったんだ。その時に首を切ったり、捕虜にしたりしたことも、『コーラン』や『ハディース』に則ったものであり、近代国際法の規範から言っても自衛権の発動だと主張しました。
 さらには議論を次のように発展させます。隣の国が攻めてきたから自衛するなんていうのはイスラーム的には意味がないことである。本来やるべきことはイスラームの正しい教えを広めることなのだと。その先に抵抗するものがあったら、それは取り除かないといけない。武力でしか取り除けないのなら、それを武力で取り除く。そして、それが自衛であると。
 つまり、イスラーム自衛権の発動という議論が、領域国家間の自衛権だという議論を「その通りですよ」として受け入れた。その上で次の段階ではイスラームを広めるための活動を疎外するあらゆる障害は取り除かなければならない、それを取り除くことも自衛権であるという話になってしまった。そうなるともう誰も反論できません。


山形:イスラーム圏でもインドネシアーー彼ら自身がどのように考えているのか知りませんがーーのように特に宗教改革をせずとも普通に世俗でも共存できているところもあります。面倒くさい宗教改革は触れずに、とりあえず共存していこうじゃないかと。『コーラン』の教えに反するような細かいところはいろいろあるかもしれない。しかし、そこは目をつぶってしまうというなあなあ主義的な展開が現実的ではないか。


山形:中央アジアトルクメニスタンで初代大統領のサパルムラト・ ニヤゾフという人が『コーラン』と自分のつくったものを勝手に合体させて作った『ルーフマーナ』を国民の精神と位置づけて教育現場で使うことを強制していました。イスラーム的にはああいことは許されない世界のように思いますが、あまり騒がれることはないのですか。

池内:イスラームにはまさに宗教解釈の統一したヒエラルキーがありません。基本的には国単位で政治権力者に依存して宗教者が存在しているので、トルクメニスタンなどではそれが通用してしまうわけですね。理屈上では、これは人々に宗教を教えるための教本にすぎないと正当化していると思います。『コーラン』に変わるものだとは宗教者は絶対言わないわけです。同時に政治家が何をやっても、それは追認すると。結果的に『コーラン』の教えが広まるのならば、それはすばらしいことだと。



ーーイスラームの中心、たとえばサウジアラビアなどには、中東の将来に対して何らかの理想への意思を持ち合わせているのでしょうか。

池内:ないんじゃないでしょうかね。主体がありませんからね。宗教者は政治権力に密着しているだけで、その政治権力のほうは国ごとの利益、自分たちの政権の生き残りばかりを考えているわけです




イスラム教というのが前面にでる場合が多いけど、その実、地域の勢力争いで、宗教的教義、あるいは、教典の解釈はその後についてくる、みたいな印象ももちますね。